伊勢物語第二十七段で女性の傷心を慰めたカジカガエルの美声を、令和のいまに聴く。
今回はまず、YouTubeからお借りしたカジカガエルの動画をご覧ください。
美しい声に、つい聞き惚れてしまいますね。伊勢物語第二十七段にはこのカジカガエルが出てきます。
さて、この段のお話を振り返ってみましょう。
主人公の男性は、ある女性と一夜をともに過ごしたものの、またの機会を作りませんでした。
女性の方は落ち込んで、盥に張った水に映る自身を見ながら、〝私ほど辛い物思いをする人は自分だけかと思ったら、水の下にも一人傷心の人がいたのねえ……〟との意味の歌を詠みました。
女性のもとを訪ねなかった彼はといえば、その歌を立ち聞きし、次の歌を詠みました。
みなくちに我や見ゆらん かはづさへ
水のしたにて もろごゑ(諸声)になく
第二十七段の物語絵で、下掲のように屋外に男性の姿が見られるのは上記のシーンを描いているのです。
彼が詠んだこの歌の冒頭にある〝みなくち〟とは、現代人には忘れ去られた言葉ですね。川から田への水の取水口のことをいいます。
続いて、歌中に〝かはづ〟が登場しますが、これが初めにご紹介したカジカガエルのことなのです。
平安時代の歌を読み解くときには、当時の常識がわからないと迷ってしまいます。例えば、かつては身近に見られた動植物らの生態が暗黙の常識として詠まれているのですが、現代ではピンとこないのです。
今回に関していえば、カジカガエルの雄には、つがいを呼び、美しい声で鳴く習性があるのです。また、このカジカガエルは水中からすれすれに顔が出るか出ないかの状態で岩に張りついていたりします。〝水の下で鳴く〟というのは、そんな状態でしょう。
平安時代の人々は上記のお約束を知っていましたので、この段の歌意は、下のように訳せたのです。
(私の姿は、その水を取ってきた川の取水口で見えるのではないかな。あの美しい声のかはづ《カジカガエル》でさえ心を合わせて水の下から合唱するというからね《私も遠くからでも思ってはいるんだよ》)
と。
それにしても、この男性の歌の詠みぶりには驚かされます。恋を生かさず殺さずに、絶佳ともいえる音の響きまでを連想させたうえ、女性の傷心にとりあえずの薬を塗る……。あきれるほどの上手(うま)さではないでしょうか。
いまは伊勢物語を読み解きながら歌の背景となる音色も聴けるのですから、古典文学も時を超えて新たに、贅沢な楽しみ方ができる時代となりましたね。ぜひご堪能(たんのう)ください。
なお、下載の屏風絵では、男性のいるあたりに川の流れが描かれています。川の存在は、この段の物語絵としてよりリアルな表現だと私は思います。
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