番外編/深江蘆舟・伊勢物語絵を描いた著名な絵師たちその②
- hattori79
- 2020年4月4日
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更新日:2020年12月1日
深江蘆舟(ふかえ・ろしゅう 1699-1757)という人も、伝記のほぼ残っていない絵師です。長いあいだ、その出自さえ判然とせず、琳派の研究者たちも〝光琳遺風、何人か知らず(尾形光琳の遺した風を受け継いではいるが、何者かは判らない)〟としてきました。ただ、尾形流の略印譜に〝蘆舟〟名のものがあるために、〝おそらく光琳の弟子筋に絵師・蘆舟がいたのだろう〟とされていたのです。
この〝蘆舟〟の姓が深江とわかったのは、昭和34年のこと。美術史家の相見香雨(あいみ・こうう)氏が発見した史料により、蘆舟は京都銀座の年寄・深江庄左衛門の長子とわかったのです。
銀座といえば、いまでは言わずと知れた東京の代表的な商業観光地です。
ところが、〝銀座〟はそもそも銀の鋳造所を指すことばで、中世には各地にありました。東京の銀座は、江戸時代に駿府から〝銀座〟が移転(1612年)し、両替町に置かれたことから派生したものなのです。一方、京都にも、伏見に開かれた銀座が移転(1608年)した京都銀座がありました。
父の庄左衛門は、同じく京都銀座年寄であった中村内蔵助と面識がありました。この中村内蔵助は巨万の富を築いた富豪でもあり、尾形光琳の最大のパトロンだったのです。光琳は彼の肖像(『中村内蔵助像』大和文華館所蔵)を描いてもいます。これらの関係性からして、蘆舟は父のつてで光琳に師事したのだろうと推察されているのです。
蘆舟の伊勢物語絵で有名なのは、蔦の細道図屏風(東京国立博物館所蔵)です。多くの人が指摘する通り、光琳よりも宗達の影響を感じる画風です。
同名の屏風がクリーブランド美術館にも所蔵されていますので下記に掲載いたしました。見比べていただくのも一興です。いずれも蔦が美しいですね。画風は宗達よりも垢抜けているかもしれません。

蔦の細道屏風は、伊勢物語第九段・通称「宇津の山」のエピソードが画題です。絵が意味するところは後日、あらためて解説したいと思いますが、蘆舟は同じ題材で下掲の絵も描いています。

蘆舟という絵師には、よほどこの題材が心に沁みていたのでしょう。そのお話はまた、いずれしたいと思います。
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